昔から少し気になっていた条文があります。民法979条。
「船舶遭難者の遺言」というなかなか物々しい名前の遺言について定めた条文です。船が遭難し、その船の中で死亡の危急に迫った人は、証人二人以上の立会いのもと、口頭で遺言をすることができます。
まだ法律の勉強を始めたてのころ、民法の中にこの条文を初めて発見したときにふと考えました。「証人も一緒に遭難しているのではないか」
私の頭の中では、船が沈んでいました
「船舶が遭難した場合」と聞くと、どうしても大変な光景を想像してしまいます。私の頭に浮かんでいたのはほとんどタイタニック号でした。船は大きく傾き、海水が入り、いまにも沈みそうになっている。
そんな中で、一人の人が死を覚悟して「私の財産は……」と話し始める。それを二人の証人が聞いている。いや、その二人もかなり危ないのではないか。遺言者だけが亡くなり、証人二人が無事に生還してその遺言を伝える。初めて読んだときには、そんな都合のよいことがあるのだろうかと思いました。
ただ、これは「遭難」という言葉から私が勝手に「沈没寸前」までを想像していたところもあったようです。船が座礁したり大きな事故が起きたりしていても、乗っている全員が同じように死亡の危機にあるとは限りません。
事故によって一人だけ重傷を負い、救助が来るまでもたないかもしれないが、その傍らに話を聞くことのできる人が二人いる。そう考えれば少し現実の場面が見えてきます。
ところが、調べていくうちに別のところが気になってきました。
内容を覚えて帰る!?
この遺言では本人が遺言書を書くわけではありません。死亡の危急に迫った本人が、証人二人以上の前で口頭で遺言をします。そして証人がその遺言の趣旨を筆記して署名・押印します。しかも、その筆記は遭難している最中にしなければならないわけではなく、遭難状態が終わったあとでもよいとされています。つまり、船の中で本人の言葉を聞く。そして無事に帰還したあとにその内容を書く。
覚えて帰るのです。これはこれでなかなかすごい話です。遺言ですから内容によっては不動産や預貯金など大きな財産の行方が決まります。
「あのとき、確かこう言っていた」それを証人二人が持ち帰る。もちろん、その後には家庭裁判所による確認の手続もあります。それでも、その人の意思を船から陸へ最初に運んでくるのは人間の記憶です。
まさに稗田阿礼です。人の言葉を記憶し、それを後に文字として残す。「人が覚えて、それを後から文字にする」という仕組みを見ていたら『古事記』の編纂にかかわった記憶の天才・稗田阿礼が頭に浮かんでしまいました。
人間が記録媒体だったころ
冗談でそんなことを考えていたのですが、もう少し考えてみるとこの仕組みの見え方が変わってきます。
現在なら私たちはいつでも音声を録音できます。動画も残せます。離れた場所にいる人ともその場で連絡を取ることができます。しかし、この遺言の仕組みの骨格ができた時代にはそんな便利なものはありません。
海の上で事故が起きた。一人の人に死が迫っている。それでも、その人には最後に残しておきたい意思がある。紙に書くことも難しい。公証人もいない。陸上にいる誰かに連絡することもできない。その状況でその人の言葉を残そうとすれば―。そこにいる誰かが聞いて覚えておく。そして陸まで持ち帰る。
そう考えると「証人二人の記憶」という一見心もとないような方法も、その時代には大切な意思を残すための手段だったのかもしれません。
遺言というとどうしても「書類」として考えます。自筆証書遺言にするのか、公正証書遺言にするのか、何を書けばよいのか、どういう形式で作ればよいのか。もちろん、実際に遺言を作るときにはどれも大切なことです。
でも、民法979条という少し変わった条文を眺めていると、そのさらに手前にあるものが見えるような気がします。その人が最後に何を望んでいたのかを、その人がいなくなったあとにも残す。遺言という制度はずいぶん昔からそのための方法を考えていたんだと思います。船が遭難しているという極端な場面でさえその人の意思を残す方法が用意されています。
民法979条。昔から少し不思議に思っていた条文ですが、あらためて眺めてみると遺言というものの原始的な姿を見ているような気もしてきました。










